リディア・バラ(Lydia Ballagh)は、19世紀後半に日本で活動したアメリカ合衆国の女性宣教師です。1873年に来日しましたが、当時、日本には十分な教育を受けた、今で言う看護師がおらず、そういったトレインドナース(教育を受けた看護師)を養成する教育機関をつくる必要性がありました。リディア・バラ(Lydia Ballagh)はそのために努力した一人です。
「リディアさんは、貧民救済の活動をしているときに、看護婦の必要性を痛感し、看護学校を作るための寄付を募りにアメリカに渡ったのですが、病に倒れてしまいました。」
(「明治のナイチンゲール 大関和物語」中央公論社,田中ひかる,2023年)
リディア・バラ(Lydia Ballagh)が志半ばに亡くなったのは1884年、帰国中に肺炎を患ったために急逝してしまいました。リディア・バラ(Lydia Ballagh)の死後、彼女の遺志を継いだのがマリア・トゥルーです。
看護師の生まれる夜明け前。
多くの女性が奔走していました。
今は専門職として一定の社会的地位や人気もあり、国家資格でもある看護師ですが、多くの女性の努力により今の地位が築かれてきた、と言えます。(※画像は彼女と同名のバラの花、リディア・バラのイメージです)